日本人の美肌の歴史!美白に憧れるには理由があった!
はじめに
メイクの仕方も多様化した現代において、昔から変わらないものは、素肌の美しさがメイクの仕上がりをきめるということ。
日本人女性は常に、白く、きめが細かく、潤いのある肌をめざしています。
女性が美しくありたいと願うのは、どの時代にも共通することです。
「色白は七難隠す」ということわざにもあるように、日本女性は古くから白い肌を美しいとしてきました。
欧米風のメイクが流行する今でも日本女性の「美白」意識は高くあります。
そんな日本女性ならではの美の源流を探ってみませんか?
住環境とも関わりのある白肌
平安時代は、当時の住環境も白い肌美観を形成する上で重要な要因となったと考えられます。
平安時代を代表する文学作品『源氏物語』には「白く美しげに透きたるやうに見ゆる御膚つきなど」とあり、肌がキレイで透き通っているように見えるのは世にまたとないほど可愛らしいと、白い肌を大絶賛した表現が確認できます
。
「白い肌」は、中国の漢詩からの学びを経て、日本の文学表現に受け継がれました。
宮廷の女性が生活する大きな屋敷の中は、昼も夜も現代と比べたら、とても暗かったと想像できます。
昼でも日の光が差し込まない、夜は乏しい灯りの生活空間では、真っ白に塗った白粉化粧でこそ、肌はキレイに引き立って見えたことでしょう。
平安美人という言葉が示すように、この時代から日本独自の「美人観」が形成されていったのです。
白肌にはかかせない白粉とは
『日本書紀』には当時の文明国である唐から692年(飛鳥時代)、女帝・持統天皇へ白粉(おしろい)がもたらされた記述があり、日本人の白い肌への憧れと美意識はこの頃から芽生えていったようです。
昔の人々にとって肌の白さは、日に焼ける労働をしない高貴な身分の象徴で、同時に、当時は貴重な白粉を使うことができる豊かさのあかしでした。
つまり、庶民には欲しくても手が届かないものだったのです。
そうしたイメージが白肌への憧れに結びついて、白い肌に価値を置く美意識が生まれたと考えられます。
白粉は紙製のパッケージ「白粉包み」に入って販売されており、購入した白粉は、「白粉三段重ね」と呼ばれる三つ重ねられた陶磁器をパレットのように使用しておりました。
この中で白粉を水で溶き、ベースメークに使用したほか、仕上げには粉の状態で肌にはたくこともあったそうです。
白肌=美白ではない?
ただ白いだけでなく、”白く透き通るようで、キメ細かくツヤのある肌”“玉のように磨かれた白い肌”という意味合いが強く、特に江戸時代以降は素肌を美しくするための工夫がかなりされています。
日本女性は昔から美肌へのこだわりが強かったのです。
そこで大切なのが白粉化粧でした。
意外と思われる方も多いでしょうが、当時は今と同じでナチュラルメイクが基本で、白粉は薄く塗る方がよかったのです。
その分、素肌の美しさが求められ、当時の美容書には、肌を白くするためのパックや洗顔料などのレシピが盛りだくさんでした。
江戸時代には、白粉の下地で、”キメや色ツヤをよくして色を白くする”「美白香(びはくこう)」というコスメもありました。
内容成分がわからないのが残念ですが、コンセプトはまさに江戸時代の美白コスメと言えますね。
しかし白粉の原料に使用された鉛や水銀のせいで、貧血や神経麻痺になることがあったのです。
明治時代以降も、猛毒のヒ素を飲んで白肌を目指したり、過酸化水素水(オキシドール)で肌を漂白するなどの過激な美白法もありました。
正しい知識がなかったとはいえ、一昔前まで肌を白くするのは、場合によって命懸けでした。
日本人の目指す美肌・白肌
江戸時代以降は素肌を美しくするための工夫がかなりされています。
江戸時代の女性たちは、かなりの時間をかけて素肌感を強調した化粧をしていたようで、塗る・落とすを何回も繰り返す、頬だけ手ぬぐいでぬぐう、透明感を出すための白粉の塗り方、といったことが『都風俗化粧伝』でも紹介されているという。
そして、「白い肌=美人」という概念は、その後の私たち日本人の美しさのひとつとして育まれていき、今世の白肌ブームとして成り立っているのです。
昨今では、白肌ブームも色の白さというわけではなく、美肌の美しさという考えにシフトしてきつつあります。
さいごに
白粉で肌を美しくみせるためには、素肌の美しさが必須でした。
現在でも美しくメイクを仕上げるために、洗顔やスキンケアで肌を整え、肌を健やかに保つことが重視されております。
長い歴史の中で、ナチュラルな美しさを追求し続けた私たち日本人ですが、美白に憧れるのは、白という表現が、素肌の美しさを表していると本能で感じていたからなのかもしれませんね。